酔い覚めの夜

つらい

 

つらいよ

 

夜の長さがつらい

 

これまでのことや

これからのこと

 

あてもなく考えて

 

己の余地を殺していく

 

夜が明けて

どうしようもない現実が迫ってくる

 

ああなりたかった未来を

夢見ていた過去

 

もう実現など

できようがない

 

それは分かっているだろ

 

酒が醒めて

分かってしまうと

 

何もできない己しか残っていない

 

迷惑をかけ

気持ち悪がられ

肯定的な存在意義など微塵もない

 

そんな自分を滅却し

未練を断ち切る道連れを探して

 

今日も

記憶を失うまで

 

酩酊する他

何ができるのか

 

 

 

 

小さな世界のために16

 保育園をやめた私は、一年と少し、何もせずに過ごした。

 家族は私は社会性を身につける機会がないことを心配していたのであろう。5歳になる時、幼稚園に通うことになった。

 初めての登園は緊張というより恐怖であった。怖い保母のイメージが繰り返し思い出され、また叩かれるのではないか、怒鳴られるのではないかと不安ばかりがあった。友達ができるか否かなど、二の次だった。

 だが、心配は杞憂であった。幼稚園の先生は、限りなく優しく、私は安堵に包まれた。行き帰りのバスの運転手さんも優しい人であった。

 わたしを受け持った先生は中年に至ろうかという年頃の女性で、子どもたちからも人気があった。今思えば、不可解なのだが、折に触れて先生はピアノの下や部屋の隅で、子どもたちにおっぱいを見せるのであった。私たちは、なぜか分からないが、先生をおっぱいを見たがった。

 名前を覚えた初めての友だちもできた。カミヤくんと言った。遠方から通っている子であった。お泊り保育という催しがあり、私たちは生まれて初めて家の外で一泊した。不安よりも、楽しみのほうが大きかったのを覚えている。山中湖の施設に行き、湖というものを初めて目にした。富士山もスズメバチも初めてであった。

 遊び疲れてカミヤくんと隣の布団で寝たのだが、朝方、カミヤくんが「お母さん」と叫んで泣きながら先生に抱きついていた。彼の心境は、当時も今も鈍い私には推し量ることが出来ないが、人の心細さが表れた顔は、未だに脳裏に焼き付いて離れない。

 

 

 

小さな世界のために15

 生まれて初めて社会と接点を持ったのは、保育園であった。

 記憶など、ほとんどない。それは暗黒に彩られていた。保母たちは、常に気だるそうなやる気のない態度で、子供に対して露骨に嫌な顔を見せた。

 昼寝の時間を、わたしは禅寺の道場として連想する。眠らない子供は叩かれ、泣き叫ぶ子もまた叩かれた。体を動かしたら喝を入れられるかのように。

 それは昼寝というなの死んだふりであった。恐怖に震えながら、目を閉じ、獲物として虐待を受けないように、時が過ぎるのを祈った。今でこそ、幼児への虐待が社会問題になるが、昔の保育園にそんな気配などない。子供とは従属させる存在であり、言葉など通じないものであって、型にはめるには暴力しかないのだった。

 わたしは数日通っただけで、保育園へ行く前に泣きじゃくった。朝は憂鬱であった。地獄送りにされる前の朝食など喉を通るはずもない。何度も何度も泣いて、行きたくないと叫び続け、ついに私の願いは叶った。保育園に行かなくても良くなったのだった。それはドロップアウトの始まりであったかもしれない。だから、今でもドロップアウトしているわたしは、その何もない身の上に安住できるのかもしれない。

 大人になり、選挙権を得て、かつて通った保育園の廃園が選挙の争点になった。わたしは迷うことなく廃園を公約に掲げる政党に投票した。できることなら、あそこで働いていた保母たちを地獄送りにしたいといまだに思っている。

 

 

小さな世界のために14

 父の言ったこと。

 学問をやることの最も良いことは寛容さを養えることである。

 この一言は、私にとっていまだに心に浸透している。幼き日の私にとって、父はどこかよそよそしい存在であった。仕事の忙しさもあってか、父はいつも寝ており、入婿のために肩身の狭い態度であった。よく酒を飲み、酔って寝ている時にひどい言葉で愚痴を言っていた。

 プロレスごっこをした時、足にしがみついた私を父は何度も何度も蹴り飛ばした。諦めない私に父は本気になっていた。その顔に蹴りつけられる踵は、私を物理的にも精神的にも突き放すもので、今思い出しても悲しくなる。

 成人し、父と酒を飲むようになってから、父の寛容さに心打たれることが多くなった。父はほとんど怒らない人間であった。文学の話は尽きることがなく、何十年経っても、私にとり父は親友の如き存在として君臨した。いまだに親離れ出来ていないのではないかと思えるほど、父は優しき父なのであった。

 そんな父が弱っていく様を見るにつけ、私は自身の将来さえも暗い雲がかかるように感じる。知的な会話の相手として、養う対象あるいは養われる対象として、愛着ある父がいなくなった時、確実に私の生きる目的は減退する。

 

 

小さな世界のために13

 母。

 わたしにとって最も健全な関係を持つ相手であり、嫌悪の対象でもある。

 幼き日、母は優しく、時に厳しく私を叩いた。特段、おかしな親ではなかったと思う。気に食わないと、私に対して「他から養子をもらってくれば良いのだから、あんたなんか家から出てけばいい。」と言って、私を泣かせた。

 私が成人し、実家を離れ、再び戻っても、母は子離れ出来なかったように思う。子供への手紙を平気で盗み読んだり、私の捨てたものを漁って拾い出したりしていた。そんな母が嫌であったが、同時に家事に依存するのが楽であったため、苦々しく思いながら我慢していた。

 おそらく、わたしは母に対しては親離れ出来たのだと思う。母のおかしさ、思い込みの激しさ、自慢話の好きな性格、そういったものが成人するに連れて目についてきた。そして、わたしにも確実に似た要素が受け継がれていると自覚している。わたしはそんな母の短所を目にする度に自己嫌悪し、逆に自分が失敗したことを母の遺伝子のせいにして母を憎む。母の存在は、自らにかけられた呪いのごとく思える。もっとも、自分を嫌い、世間を憎む者にとっては、一人の親を呪うなど当たり前の話である。

 

 

小さな世界のために12

 叔母。

 今思えば、わたしに最も似た人物と言える。

 結婚もせず、仕事をするでもなく、家にいて、何をするでもない。でっぷりと太って、その体と時間を持て余していた。妙なオカルトにはまり、家に大きな神棚を作り、さまざまな仏像を飾っていた。それも宗教的な統一性などなかった。

 よく癇癪を起こしていた。祖父や母に殴りかかっていた。わたしはその光景を怪獣映画の1シーンのように見ていた。恐怖があるわけでもなく、善悪の価値観もなかった頃の話である。しかし、祖母は震えていた。

 叔母は私と同じ部屋に二人きりになると、たまに近寄ってきて耳打ちした。

「あなたとわたしは金星から来たの。もうすぐ帰るから。」

「わたしはロックフェラー家の生まれ変わりだから、すぐに迎えが来る。その時は連れて行くから。」

 話の内容はとにかく、耳にかかる生暖かい吐息が気味悪く、話しかけられる度、わたしは恐怖で体が硬直した。子供でも分かった。これが本当の気違いなのだと。

 私が小学校に上がって間もなくのことだった。私が学校に行っている間に、叔母はいなくなっていた。たび重なる暴力に危険を感じた母が、叔母を精神病院へと強制入院させたのであった。

 5年ほど経ち、叔母は帰ってきた。通信制の大学の授業を受けるなどしていたが、結局はオカルト癖は治らなかった。そして、ある日、いびきをかいて昏睡状態となり、再び入院した。母も今度ばかりは叔母を家に戻すことはなかった。

 何もしない人間だから、オカルトにでもすがるしかなかったのだろう。大学の単位を取ったとて、それが慰めになったのかは疑わしい。ただ、叔母は叔母なりに生を模索し、己を崩壊させないため、必死に守っていたと思う。その苦しみは分からなかったが、似たような立場になった今のわたしは、叔母を責めることも出来ない。ただ、年をとるにつれ、人生が置かれた状況も、外見さえも似通ってきたと自覚する度、叔母を思い出して、私は自身の有り様と、これから終焉に恐怖しか抱けない。