生まれ落ちて、最初に覚えていること。
それは手の甲で眼を擦ることだった。眠りから覚め、目の周りについた乾いた目やにを擦ると、ジャリジャリとした感触が伝わる。その味わいは蠱惑的で、いつまでも止めることができない。
今でも起きたら必ず、毎日、子供の頃から刑務所の中まで、この行為は続いている。
それは無意味であると同時に、生きることと同義であり、私の人生の始まりから続いている儀式である。
生まれ落ちて、最初に覚えていること。
それは手の甲で眼を擦ることだった。眠りから覚め、目の周りについた乾いた目やにを擦ると、ジャリジャリとした感触が伝わる。その味わいは蠱惑的で、いつまでも止めることができない。
今でも起きたら必ず、毎日、子供の頃から刑務所の中まで、この行為は続いている。
それは無意味であると同時に、生きることと同義であり、私の人生の始まりから続いている儀式である。
後悔。
人生を後ろ向きに生きること。
これまでの人生が、人と比べてとりわけ不幸だったとは思わない。悲惨な出来事も幸運な記憶も一通り経験してきたつもりだが、決定的な断絶や過失はなかった。大したことのない人生であった。しかし、現在これほどの苦しみに悶ている。過去を振り返り、悪いことばかり思い出して、己を罰している。その考えの有り様は、深々と根付いてしまい、どう足掻こうと取り除けそうにない。
ならば、集めるほかないだろう。記憶を手繰り、言語という形にして、その姿を観察する。出来上がったものが醜悪であろうが、あやふやなイメージを思い浮かべ、苦しげな方へ己を誘導している今に比べれば、はるかにましだ。何事もなければ、何事もなかったと確認すれば良いだけなのだ。
生まれ落ちてから、何が私を変えてきたのか、振り返る。
それは自伝というには粗末だが、創作とも言えぬ。それでいて、私のオリジナルであることに間違いはない。
己を取り巻く絶望が問題であった。
内実などなくても良い。
ただ無力さに襲われないため、己を守りながら、安らかに死に向かう方法論が欲しかった。
世界の広さ、多様性、それらを知れば知るほど、自分の小ささが悲しく思えてくる。だから、複雑で魅力に溢れた現実と向き合うことはできない。小さくても、完結し、それでいて充実した何かを生む。そこには断絶があってもよく、悲劇も苦しみもあってもよい。だが、寛容や許容の名の下に、空虚が入り込んではならない。不自由は許せても、空っぽの自由は駄目だ。胸の奥にスカスカな風を吹かせてはならない。
そう考えて、まずは地の重さ、足を引きずる愚鈍さに向かう。
高踏で軽やかな詩などもってのほか。のっぺりとしてもずっしり重く、紙を黒く塗りつぶす散文がふさわしい。
無力に苛まれ、己を諦めていたうち、自責と自棄の念はますます膨らみ、己が無のまま終焉することの恐怖が募った。生に意味を見出だせず、朽ち果てゆく自分を想像し、何もかもが失われ、滅びるだけの残りの時に、絶望を感じながらも、歯痒さといたたまれない口惜しさが湧き上がった。
わたしは何をしたかったのか。
何ができたのか、できなかったのかではなく、意思を省みなければ、このまま死にたくないと思った。
金や名誉や毀誉褒貶を手に入れても、虚しくなるように思っていた。享楽に耽る機会は、これまでもあった。今さら、それら一時の浮かれ事に己を賭けたいとは思えなかった。
自分自身の納得する行為を見つけたかった。それが周りから愚かに見えようと、気にせず埋没できる覚悟はあった。時は限られ、老いを感じ、完結が見えずとも、この先を生きていけると思える何かの希望にすがりたかった。
一週間ほど出かけます。