2022-12-01から1ヶ月間の記事一覧

小さな世界のために16

保育園をやめた私は、一年と少し、何もせずに過ごした。 家族は私は社会性を身につける機会がないことを心配していたのであろう。5歳になる時、幼稚園に通うことになった。 初めての登園は緊張というより恐怖であった。怖い保母のイメージが繰り返し思い出…

小さな世界のために15

生まれて初めて社会と接点を持ったのは、保育園であった。 記憶など、ほとんどない。それは暗黒に彩られていた。保母たちは、常に気だるそうなやる気のない態度で、子供に対して露骨に嫌な顔を見せた。 昼寝の時間を、わたしは禅寺の道場として連想する。眠…

小さな世界のために14

父の言ったこと。 学問をやることの最も良いことは寛容さを養えることである。 この一言は、私にとっていまだに心に浸透している。幼き日の私にとって、父はどこかよそよそしい存在であった。仕事の忙しさもあってか、父はいつも寝ており、入婿のために肩身…

小さな世界のために13

母。 わたしにとって最も健全な関係を持つ相手であり、嫌悪の対象でもある。 幼き日、母は優しく、時に厳しく私を叩いた。特段、おかしな親ではなかったと思う。気に食わないと、私に対して「他から養子をもらってくれば良いのだから、あんたなんか家から出…

小さな世界のために12

叔母。 今思えば、わたしに最も似た人物と言える。 結婚もせず、仕事をするでもなく、家にいて、何をするでもない。でっぷりと太って、その体と時間を持て余していた。妙なオカルトにはまり、家に大きな神棚を作り、さまざまな仏像を飾っていた。それも宗教…

小さな世界のために11

祖母。 私の記憶の中で唯一、あたたかく、美しい思い出として揺らぐことのない存在である。 子供の頃から人との触れ合いが苦手であった。保育園など3歳で行かなくなった。高圧的な保母が嫌いで、何度も何度も泣いた。家にいて、幼いながらも引きこもりと同…

小さな世界のために10

酒。 10代の後半には飲んでいた。それはタバコと同様に、大人の振る舞いを真似て背伸びをしたいという誰もがもつありふれた動機だった。 格好つけるというには、酒は相応しくない。だが、酒の場が醸し出すだらしない会話を好んだ。ダラダラといつまでも続く…

小さな世界のために9

路地の夜に渦巻く気配は、欲望と警戒、嬌声と恐怖であった。 角に立つ街娼たち。取締の日には、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。それを私服の警官と思しき男性が走って追いかける。 どこからか女の悲鳴が聞こえた。男の怒号も。 深夜のアパートで、ドアの…

小さな世界のために8

路地。 生まれた家は憶えていない。生まれてすぐに区画整理があったからだ。 物心ついてから、二十年かけて、家から駅までの区画整理が行われた。わたしの成長に合わせたように、道は広く直線的に置き換わっていった。故に、子供の頃の家の周りには、まだ路…

小さな世界のために7

吃音は、単に言葉が出ないことではない。 物忘れや言い回しに困って単語が口から出ない経験は誰にもあるだろうが、吃音は口に出したい単語が強烈に脳裏に浮かんでいる。口に出す一歩手前、いわば口腔内に単語が溜っているのにもかかわらず、外に出せない。結…

小さな世界のために6

吃音。 気づけば、うまく喋れなかった。脳裏に浮かぶ単語を口に出そうとすると、咽頭が緊張し、「イ・イ・イイィー」と引きつった音を立てる。言葉を発しようとすればするほど、力みは増し、ますます歪な吃音が出るのだ。 失笑をかったのは数知れず。あるい…

小さな世界のために5

にゃーにゃ。 幼き日の母の呼び方。それは猫をもじったもの。 猫が好きだった。その佇まい、静かさ、我がままさ、群れをなさない自由な個のあり方。 子供の頃には、野良犬がいて街を徘徊していた。彼らは人を襲うことはなかったが、興味本位で近づいてきて、…

小さな世界のために4

生まれ落ちて、最初に覚えていること。 それは手の甲で眼を擦ることだった。眠りから覚め、目の周りについた乾いた目やにを擦ると、ジャリジャリとした感触が伝わる。その味わいは蠱惑的で、いつまでも止めることができない。 今でも起きたら必ず、毎日、子…

小さな世界のために3

後悔。 人生を後ろ向きに生きること。 これまでの人生が、人と比べてとりわけ不幸だったとは思わない。悲惨な出来事も幸運な記憶も一通り経験してきたつもりだが、決定的な断絶や過失はなかった。大したことのない人生であった。しかし、現在これほどの苦し…

小さな世界のために2

己を取り巻く絶望が問題であった。 内実などなくても良い。 ただ無力さに襲われないため、己を守りながら、安らかに死に向かう方法論が欲しかった。 世界の広さ、多様性、それらを知れば知るほど、自分の小ささが悲しく思えてくる。だから、複雑で魅力に溢れ…

小さな世界のために

無力に苛まれ、己を諦めていたうち、自責と自棄の念はますます膨らみ、己が無のまま終焉することの恐怖が募った。生に意味を見出だせず、朽ち果てゆく自分を想像し、何もかもが失われ、滅びるだけの残りの時に、絶望を感じながらも、歯痒さといたたまれない…